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私の父は船員だった 喜びも悲しみも幾歳月  若山彰さん

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小学校の学芸会のときに私は船長の服を着て舞台に立った。

なぜかわからないが、父の仕事が船員であることを担任の先生が知り、それで

船長の服を私に着せたものと思われる。

劇がどんな内容かは忘れて覚えていない。

小学生のときの父からの記憶はほとんど無い。

その理由は1年の内1ヶ月ぐらいしか家に帰らずの外国航路の船乗りだったからだ。

小学生じゃなく幼児期(5,6歳頃)が父に関する記憶がより多くある。








母の故郷の神戸港に停泊していた父の乗船していた船を数回見に行ったことがある。

客船ばかりで、サントス丸、パナマ丸、ブラジル丸、アンデス丸、、、、

港の埠頭から船を眺めたときの印象は

とてつもなく、どでかかった!!

数十年たった今でもそのばかでかさははっきりと記憶に残っている。

船に乗り船室に入ったとたん異常な蒸し暑さ感じた。

父の部屋は船長だから特別の個室であった。

食事の料理の豪華さは、日本国内の超一流ホテル以上のメニューであることは

確かだ。



喜びも悲しみも幾歳月  若山彰さん



私の父は船員だった



あんな料理はその後どこに行っても見たことが無かった。

それを見て父のこの船での地位がおのずと理解できた様な気がする。

洋食、和食と並べられてあってはあったが、

父が口に運ぶのは全て和食ばかり。

父の口癖に

ケトウ(外国人のこと)はこんなつまらんもんしか食わん!

私も若いときには洋食多目、和食少な目にとっていたが、

ある年齢から

和食がほとんど毎日で

その訳は今の体にあっているからかな~









そんな父が年にひと月ほど九州の僕らが住む自宅に帰ってきたときは、

父の顔を見て嬉しかったというよりも、そんなことはあんまり記憶に無く、

父の持ってきたお土産をみて私がとても喜んだことだけは、今でもよ~く記憶している。

日本の店では見たことも無いハーシーのチョコレート、大きな缶入りのMJBのコーヒー

、リオデジャネイロの名の入った本物の蝶の光る羽根の入った額。

他にもあったろうが特別にこれらはよく覚えている。

   続く

私の父は船員だった

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